ニセコだより

北海道のニセコから、春夏秋はクライミング、冬はバックカントリーを中心に、最新のアウトドア情報を発信します。

 
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さようなら、おばあちゃん

4/29 祖母が98歳の生涯に幕を閉じました。


正に、激動の昭和を生きた祖母。

夫と3人の子供と、満州に渡り、平和な日々も束の間。
戦況が悪化し、身体が弱く、兵隊に取られる筈も無い父も、シベリアへ出兵。

程無く、終戦の日を迎える。 
その時、長男である、私の父は10歳。 
玉音放送の意味が解らず、祖母に尋ねた事を、はっきりと覚えているそうだ。

この日より、ロシアに追われる立場となる。
南下するロシア兵から逃れる為、幼い子供たちとの逃避行。

道すがら人さらいが横行しており、さらわれない様に、必至に手を離さなかった。

なんとか、アメリカの軍艦に救われ、日本へ。
ホッとしたのも束の間、祖父がロシアの捕虜となり、遠きシベリアの地で
強制労働の末、亡くなった事を知る。
しかし、悲しみに浸る暇も無く、日々の糧を得る為、
東京の路上で、靴磨きをして、生きつないだ。

その様な状況の中、長男である私の父は、
祖父の実家、福島の地へ引き取られていった。
亡き祖父の代わりに、跡継ぎとなる為だ。

その後、長い年月。 離れ離れに暮らしたが、
漸く、25年前、私の実家である静岡に祖母を呼び、
やっと親子が一緒の平和な日々が始まった。

ただ、お互い離れた時間の分、本当に打ち解けるまで、
時間が掛かった事は当時まだ小学生だった私にも感じられた。

少しづつではあるが、幸せも多くなっていき、
祖母の気持ちも和らいでいった。

でも、祖母の気持ちの中に、いつまでも消えない大きな傷。

祖父のゆくえ。

奇跡は起きた!!
2008年4月25日、祖父の遺骨が、帰ってきた。
以下、当時の新聞記事より。

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静岡新聞
シベリアから遺骨 鹿俣さん妻子、涙の出迎え 浜松
04/25 09:24

 第二次大戦後、旧ソ連で抑留中に死亡した旧陸軍兵長の鹿俣正さん(福島県出身)の遺骨が24日、浜松市内に住む遺族に返還された。酷寒のシベリアの地で亡くなってから62年ぶりに故国に戻った鹿俣さんの遺骨を、遺族は「よくぞ帰ってきてくれた」と涙で迎えた。
 県などの記録や遺族によると、鹿俣さんは昭和18年ごろに当時家族で住んでいた満州から出征し、歩兵第178連隊に所属。終戦後に捕虜として旧ソ連に連行され、昭和21年1月にチタ州の収容所で33歳で亡くなったとされる。
 県の担当職員2人が浜松市浜北区に住む鹿俣さんの長男淳一さん(71)宅を訪れ、同日朝に厚生労働省から引き渡しを受けた遺骨を遺族に手渡した。鹿俣さんの妻トヨさん(94)は白木の箱に顔をうずめて号泣し、「ありがとうございました」と声を震わせた。
 鹿俣さんの遺骨は平成14年に政府派遣団がチタ州で収集した百十四柱の中に含まれていて、遺族が平成15年に厚生労働省にDNA鑑定を依頼し、同20年3月に本人と確認された。県によると、旧ソ連抑留者のうち遺骨を元にDNA鑑定で身元が確認されたのは、県内で12例目となる。
 淳一さんは「幼いころ、父の肩車に乗せてもらって映画を見に行った」と亡父の記憶をたどり、「鑑定作業が長く、一時はあきらめていたので本当にうれしい。やっと私たち家族の戦争が終わりました」と感無量の面持ちで語った。
 遺骨は25日、同市内の鹿俣家の墓に納められるという。


シベリア抑留死から62年、94歳妻に遺骨
2008年04月25日07時44分

 とうちゃん、お帰り――。旧満州(中国東北部)で旧ソ連軍の捕虜になり、シベリア抑留中に死亡した元陸軍兵長の鹿俣正(かのまた・ただし)さんの遺骨が24日、静岡県浜松市浜北区に住む妻トヨさん(94)ら家族の元に届けられた。政府派遣の遺骨収集団が02年に現地から持ち帰った旧日本軍兵士の遺骨の一部が、DNA鑑定で正さんと確認された。生きていれば95歳になる夫。別離から60年以上たっての「再会」に、車いすのトヨさんは何度も涙を流した。
(写真)車いすから立ち上がり、正さんの遺骨を受け取るトヨさん=浜松市浜北区西美薗の鹿俣淳一さん方
(写真)シベリアで亡くなった鹿俣正さん

 正さんは福島県伊達郡梁川町(現伊達市)の出身。養蚕の道具を商う家業を嫌って、トヨさん、生後8カ月だった長男淳一さん(71)を連れて満州へ移住し、現地のガス会社に就職した。左目が不自由だったが、太平洋戦争が始まって1~2年後、30歳を過ぎてから召集された。
 歩兵第178連隊に所属し、終戦間際、ソ満国境で捕虜となった。旧ソ連から政府に提供された「抑留中死亡者名簿」などから、現在のロシア・チタ州のハルボン収容所で終戦翌年の1946年1月、急性肺炎と栄養失調で33歳で亡くなったとされていた。
 淳一さんは03年、政府が行うDNA鑑定に同意し、照合用にほおの粘膜を提供した。しかし、なかなか結果が出ず、「もうあきらめていた」という。
 終戦翌年に日本に引き揚げるまで、トヨさんは、淳一さん、娘の浩子さん(65)、次男の征志さん(62)を連れ、貨車で朝鮮半島に連れて行かれたり、むやみに発砲するソ連軍兵士におびえたりする日々を送ったという。淳一さんは「女性では危ないからと、母は頭を丸刈りにし、背広を着て男性を装っていました」と振り返る。
 トヨさんは昨年末、肺炎で生死をさまよった。記憶力や体が弱って車いす生活だが、遺骨が帰ってくると知ってからは、何度も涙を流したという。この日、静岡県援護恩給室の職員から遺骨を受け取り、額を箱に押しつけて泣いたトヨさん。ふたを開けて骨片を手にすると、「とうちゃん……」と声を絞りだした。
 淳一さんは「よく帰ってきてくれました。今日の雨はおやじのうれし涙でしょう。これで我が家も終戦を迎えられました。本当に感謝します」と語った。
 県によると、旧ソ連抑留者のうちDNA鑑定で身元が確認できた遺骨は県内で12人目。鑑定結果待ちは13人いる。

【静岡】旧ソ連抑留中に死亡の遺骨 65年ぶり浜松市の遺族のもとへ
中日新聞 2008年4月25日
(写真)県職員から鹿俣正さんの遺骨を手渡される妻トヨさんら=24日午後、浜松市浜北区西美薗で

 1946年に旧ソ連(現ロシア)ハルボン収容所で死亡したとされる陸軍兵長の遺骨が24日、浜松市の遺族のもとに帰った。遺骨は第二次大戦中、陸軍歩兵第178連隊に所属していた鹿俣(かのまた)正さん=享年(33)、福島県出身。家族と別れてから、およそ65年。浜北区西美薗で待つ妻子は遺骨と“対面”し、悲しみを新たにしながら「これで終戦を迎えられる」と語った。(報道部・原田遼)
 2002年にロシア・チタ州の第25収容所第4支部埋葬地で収集された114柱の遺骨の中から、遺族が申請したDNA鑑定で照合し、身元が確認された。現地で収集した遺骨収集団から厚生労働省などを通じて届けられた。
 県職員から遺骨を受け取った妻トヨさん(94)は「ありがとうございます」と頭を下げ、その場で泣き崩れた。長男・淳一さん(71)は「母は、DNA鑑定の通知書が届いた時も号泣していた。戦争の時、よほど別れがつらかったのでしょう」と、母親の思いを代弁した。
 正さんは1937年、福島県からトキさんと生後間もない淳一さんを連れて、旧満州(中国東北部)に移住。43年ごろに出兵し、戦地で捕虜となり、収容中に栄養失調のため亡くなった。
 「会社が休みの時は、いつも僕を肩車して、瀋陽の映画館に連れて行ってくれる優しい父だった。これで家族全員が終戦を迎えられます」と淳一さん。遺骨は市内にある正さんのお墓に納骨される。
 ロシア・チタ州の第25収容所第4支部埋葬地の遺骨からDNA鑑定で身元が分かったのは、静岡県関係者で初。


旧ソ連抑留:62年ぶり遺骨返還 福島県出身の鹿俣正さん、浜松の遺族の元へ/静岡

 ◇「これで大戦終わった」
 敗戦後、旧ソ連で抑留中に33歳で死亡した福島県伊達市出身の鹿俣(かのまた)正さんの遺骨が、厚生労働省の調査で特定され24日、62年ぶりに浜松市の遺族の元に戻った。長男の淳一さん(71)=浜松市浜北区西美薗=は「これで私たちにとっての第二次世界大戦が終わった」と思いを語った。
 正さんは満州ガスの社員として働いていた43年に召集され、妻トヨさん(94)と淳一さんら子供3人を残して旧満州(中国東北部)とソ連の国境地帯に出征した。敗戦で捕虜となり、現在のロシア南東部チタ州のハルボン収容所に抑留された。
 シベリアなどには旧日本兵約57万5000人が抑留され、そのうち約5万5000人が現地で死亡したとみられている。正さんも栄養失調と肺炎で46年1月に亡くなった。
 厚労省が02年夏、現地の共同埋葬地から収集した遺骨114人分のうち、DNA鑑定で正さんのものを特定し、先月家族に報告した。
 この日、県職員が木箱に納められた遺骨を届けると、トヨさんは涙を流して骨つぼから遺骨を取り出し、さすりながら「お父さん」と話しかけていた。
 県内で、DNA鑑定によって抑留者の身元が確認されたのは正さんで12人目。淳一さんは「鑑定を依頼して4年以上たち、半ばあきらめていたのでまさかと思った。まだ遺骨が戻らない人が大勢いる。早く全員戻ってほしい」と話していた。【平林由梨】
毎日新聞 2008年4月25日 地方版

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きっと、祖母は今、天国で祖父と出会い、
手を取り合い、お互いの背と背にもたれ、
幸せそうにしているのだと思います。


東京神田のおばあちゃんの家に泊まりに行って、食べた白ネギの入った、納豆ごはん。
今も忘れません。 うまかったなぁ・・・
静岡に帰るのが、いやでいやで、よく泣いたっけ。


静岡に越してから、作ってくれた煮物も絶品でした。

飼っていた犬のジョンの事。
はじめは犬嫌いでしたが、少しずつ、情が移り、
ジョンの最期の時は、とても悲しんでくれたと聞いています。

思春期の中学生の頃、つらくあたってごめんなさい。
ダメな孫でした。 

高校を卒業し、北海道の大学に入って、なかなか会えなくなりました。
帰郷し、お別れする際、いつも涙を見せてくれました。

社会人になってからは、後何回、おばあちゃんに会えるのか?と思い、
僕も、別れの時、涙する様になりましたね。


祖母の最期の時、僕はもちろん、家族全員、見送れませんでした。
静かに、この世を後にしたおばあちゃん。


大好きなおばあちゃん!
本当にありがとうございました。
一生、忘れません。

僕も、もうすぐ父になります。
そちらから、しばらく見守っていてくださいね。
おじいちゃんとお幸せに!!

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